「私が人を殺したって電話だよね?」
「―――っ!」
その手を振り解き、距離を取る。
「ね、だから君はここに来たんだよね」
「お、お前は―――」
彼女は後ろ手に腰に手を当てて何かを取り出す。
それは―――ナイフ。
夕日を背に、彼女は抜き身のナイフを取り出した。
まがまがしく、夕日を反射するナイフ。
それは彼女の白と黒の服とあいまって、幻想的な物語の一幕であるように、そこに存在していた。
ナイフ。
それは結局、彼の日常と同じである。
喧嘩でナイフを取り出されたことはあるし、そんな相手との喧嘩もあった。未経験のものではない。
何よりナイフという武器が死というものを強く意識させられることが逆に冷静にならなければという感覚が生まれた。
滑稽にも生きるためにである。
そう意識すると彼の胸の動悸が少しずつ治まっていく。
「……めずらしいね、武器をみて冷静さを取り戻すなんてさ」
それには答えずいつでも動けるように腰を低く、足を曲げる。
彼女はナイフを右と左手の間を行き来させて、まるで曲芸のようにそれを扱っている。それは使いなれた玩具を遊ぶ子供という印象を受ける。
「君は、あの夜、助けを求めたのにこなかった」
彼女はそこで初めて感情らしい感情を見せた。そこには憎しみの感情がありありと浮かぶ。
「お前はこなかった。おかげで死んじゃったんだよ、彼女が」
「彼女? 一体誰のことだ?」
「……本当、わかってないやつはむかつく」
だんだんと口調が変わっていく、彼女にその感情の揺らぎを感じる。
「お前がむかつくんだ」
瞬間―――
相手が一瞬にして飛び掛っていた。
そのままナイフによる突き。正確にこちらの顔面を狙った一撃。
それを上体を下げて、懐に入る。そのまま相手のナイフのもち手をとって押し倒そうとする。
男である以上、力で勝る友也が押し倒してしまえば相手を無力化できるという考えである。注意すべきはそのナイフだが、それもつかんでしまえば、やはり、力で押し切ることができる。
当然、雪代はそれを嫌って、そうさせないような動きをする。もちろんそういう前提も考慮に入れての行動である。
しかし彼女はまるで嬉々として力勝負を受け入れる。
彼女はナイフをこちらに振り下ろそうとぐいぐいと力を込めてくる。しかし、少女の力であるはずのその腕力で押し返せない。
ぎりぎりと拮抗する力と力。
「あんたは何もわかってない、昨日だって電話があっても平然としていたんだ」
一瞬、友也の脚が滑る。
その隙にけり飛ばされる友也。背中をしたたか打って呼吸が一瞬できなくなったが、いつまでも倒れているわけにはいかない。
「力ないな」
服の上からでも、彼女の腕の細さは想像に難くない。とてもそんな力を生み出せるような類のものとは友也はとても思えなかった。
「手加減しているから、かわすんだぞ」
銀光が駆ける。
この程度の距離ではすぐに詰められる。
横に一文字を切り裂く銀光。
それはあまりにも美しく、綺麗な直線の輝き。それは舞のような美しささえそこに秘めている。それを止めることはとてもできるものではない。
それは休む間もなく、次々と雨のように降ってくる。
右左へとやっとのことでかわす。
対して向こうはその顔には余裕の笑みさえ伺える。
しかし、口は笑っても目は笑っていない。
「謝れ、謝れ、謝れ―――」
そして口からは呪詛のように同じ言葉を吐き続ける。
それに恐怖する。
もういちど胸の中央に蹴りを受けて、友也は大きく吹き飛ばされる。
口の中からは血の味を感じていた。
衝撃により肺の空気が出されて、衝撃により肺が引きつり、呼吸することができなくなる。
「ごほっ、ごほっ」
せきこむ、口からは唾と血が出てくる。
「い、一体何の話―――」
「彼女は君に助けてっていっていなかったか? 電話で君に助けを求めたんだよ。早く着てって―――」
「俺が受けた電話はお前からのだけ―――」
「私は雪代加奈じゃない」
彼女は首を横に振る。
「私の名前は夕菜だ。予め言っておくけど、双子とかじゃない」
彼女は一歩一歩前へと歩いて距離を詰めてくる。
それでも友也の足はあまり動いてくれない。
「じ、じゃあ、お前は―――?」
「私は雪代加奈の別人格、名前は夕菜。あいつが死んだから、私が出てくることになったんだ」
「じゃあ―――」
二重人格なのか―――
驚きのため、最後までその言葉がでてこなかった。
それは映画や本では見たことがあった。しかし友也は実際に目をすることになるとは思ってなかったのだ。
夕菜が歩いてやってくる。ナイフを携えてである。
「昨日、事件があった。男がいきなり加奈に襲い掛かった。しかし、もみ合いになって偶然、ナイフが男の腹に突き刺さった」
すぐ近くで彼女は見下ろす。そこには侮蔑の感がある。
「加奈はお前に助けを求めた。あいつはお前のことが小学生の時から好きだったんだ。お前は知らないかもしれないけどな」
知らなかった。
彼女はそんなことは言わなかったし、そういったことを思わせるそぶりのようなものも一切無かった。
そもそも話しかけられることすらなかった。
彼女は友也の襟をつかみ無理やり立ち上がらせる。
「なのにお前はこなかった。彼女は失意の中で何をしたと思う?」
そこには酷い憎しみの感情。その感情だけで人を殺せるほどの量。それはまさに先ほど背中から感じていた感覚とまったく同じである。
彼女は手首を見せた。そこには真新しい傷口がそこに存在した。
「自分の手首を切りつけたんだ」
彼女は友也の首もとにそのナイフを突きつける。
「そのとき彼女は自己を失った。彼女の人格はどこかいってしまった。私でさえ、どこにいるのかわからない。彼女は死んでしまった」
夕菜はさらに襟元を締め上げる。
「私は加奈のことが好きだった。加奈と話をするのが好きだった。でもあいつはもういない」
ここでやっと気付く、夕菜の目元に涙を貯めているのだ。
「謝れ、彼女に謝れっ、あいつにはもう聞こえないかもしれない。だけど、謝れ、謝れ、謝れ!」
彼女は今度は友也の体を木に叩きつける。
すぅっと自分の中で何かが落ちるような感覚。
それと共にいままで恐怖を覚えていた感情がすっと潜っていき、変わりに別の感情が浮上してくる。
「す―――た」
「え?」
襟がしまっているために声があまりでない。もう一度友也はいった。
「すまなかった。俺は殺されても文句は言えない」
彼女のナイフのもち手に手を伸ばす、彼女は驚いているのか、彼女はこちらの動きに対して行動がなかった。
そのまま、彼女のナイフのもち手に触れる。
「俺を殺して気が晴れるならそうしてくれ。むしろそう俺は望んでいるから」
一瞬、まるで世界が停止したかのような沈黙が生まれる。
「な、なにが―――」
雪代は言われたことがよくわからなかったのだろうか、友也はそう思い、わかりやすいようにいう。
「……俺は前からそう思ってたんだ。死にたいってな」
「……え?」
そう、自分はずっと死を望んでいたのだ。
それは、ずっと昔からそうだった。
「理由なんかない。ただ漠然と自分は死にたいとずっと思ってきた。俺は俺を否定していままで生きてきた」
自分はずっと虚無だった。
空っぽの自分。
それも当然、自分を否定するものは自分というものを認識できない。よって空っぽという表現が適切である。
自分があまりにも嫌いで、その存在を認めることができなかったのだ。
自分の性格が嫌い、自分の髪が嫌い、嫌いなものがたくさんある。
空っぽの自分を埋めるものさえ思いつかず、ただ、自分が終わってしまえばいい。そうおもっていた。
だから、自分は反発した。周りの環境に反発すれば、なにかが埋まるような気がしていたからだ。しかし、それは逆に空虚を大きくしてしまったような気がした。
だれもが自分を奇異の目で見ている。そう思えたのだ。
髪の色でレッテルを貼られ、そういう風に見られる。それがいやで周りと反発する。そんな自分にまた嫌悪、そしてさらに反発―――
自業自得、それはその通りだと思う。しかし、自分にはそうすることでしか、自分を保つことができなかったのだ。
それでも自殺をしなかったのには理由がある。
もし自殺でもしたら学校の人間、生徒や教師はいい気持ちはしないだろうし、親にしてもそうだ。いい気持ちはしない。
それがすべて自分の身勝手によるものなのだから。
だから自分は望んでいた。
この滑稽な生が自殺以外の要因で終わることを。偶然で死ぬことを。
誰かに殺させること、事故で死ぬこと、病気で死ぬこと。それらならば死ぬ責任は自分にはないからだ。
だから夕菜に殺してくれるならそれは本望なのだ。
「―――なさいよ」
「え?」
夕菜はうつむいて何かいう。しかし、友也には聞き取れなかった。
「叫びなさいよっ、恐怖しなさいよっ、泣き喚きなさいよっ」
「それは―――」
ぎりっ
歯軋りの音が確かに聞こえた。
「すまない。俺はお前の希望に答えられない」
そこに沈黙が落ちた。
風が唸る。
穴が空く。
「ぎゃぁぁっぁあぁぁぁっ!」
それは人の声から生まれたものとは思えないような絶叫。それがあたりを木霊する。
「うるさい」
彼は頭をかきながら、文句をいった。
そしてその声は主はまるで獣のように、地面に手足をつけていた。頭を低く四脚になって―――いやその体を支える、四脚が一本少なかった。
その這うようにしている男の口からはだらだらとよだれとも血ともつかないものがとめどなく流れている。しかしそれでも目だけはぎらぎらと光を放っている。
なにより異常なのは、その体の一部が肥大し通常の人間の姿をしていないということである。
あたりには鼻につく異臭が漂う、それは血の臭いだけではなく、なにか腐臭を伴っていた。
その腕が無い壮年の人間と対峙するのは若い男。スーツ姿のその男はスーツの襟を正して、その男に人間に視線を送っていた。
その男の手にはそこには拳銃が握られていた。
「なかなかがんばった方だ」
そして一歩その地面を這う男へと近づく。
男は獣が発するような唸り声を上げてじりじりと後ろへ下がる。
「忘れ物だ」
そうやって右手に持っていたものを街灯の上へさらす。
そこには右手があった。つまり、それは壮年の男の無かった右腕だった。
「返そうか、これ」
「ぐるるるっ」
「そうか、いらないか―――せめて景気づけに使わせてもらうかな」
そういって、その腕を空に投げる。回転しなから、ゆるい放物線を描いて、その男へと飛んでいき―――
「穿て」
その言葉と共に拳銃からは小さな炸裂音。それと同時にバラバラに散るようにして、細かく分断される。
一つが二つに二つが四つに、それらが地面に落ちるころにはミンチ状になってコンクリートの上に散らばる。
もしその場に銃についての知識があるものがいたら、あのような拳銃で腕のような質量があるものを、一瞬で、しかも一発の銃弾で細切れにしたことを不自然に思っただろう。
しかし次の瞬間にはさらに不思議なことが起こった。
その腕の破片が、まるで溶けるようしてその場から消える。後には僅かな血さえ残らない。
「○月×日、夜半過ぎに血の雨が降るだろう」
そういって一歩前に出る。
それに反射的に逃げ出すその壮年の男、
そして―――
絶叫が木霊した。
|