5年前、契約の名の下に
雪が降っていた。
すべてを白く塗りつぶす雪。
だが、その中に塗りつぶされてはいないものがあった。
その白い雪よりも、さらに白いもの―――それがまるで生き物のように変化を続けていた。
最初は三角形、次が星型、そしてさらに複雑に成長を遂げていく。
ちょうどそれは雪の結晶に似ていた。
もっとも、普通の雪の結晶と違ってその大きさは数メートルもある。それは地面から数センチのところで水平に浮かんでいた。
時折、光をこぼす―――女性の白い吐息と呼応するかのように。
彼女は息を荒くしていた。この行為の為だ。
女性の指先に従い、次々文様が刻み込まれ、それがやがて力になる。
「開け、契約の名の下に」
凛とした女性の声が響く。
女性はかなり寒さのため厚着をしていたが、その文様を維持するために顔には玉のような汗が浮かんでいた。
息と息、光と光の間隔が少しずつ失われていく。
そしてそれが最高潮になったとき―――
瞬間
風と衝撃、そして雪煙が文様の中心で発生する。
その雪煙の先―――
そこには異世界と意思がもれていた。
やがて異世界はゆっくりと閉じていった。しかし、もれてきた人はそのままそこに存在したままだった。
やがて消えた雪煙からは一人の男性がそこに存在していた。
光の文様は光を失い、あたりは彼女の呼吸と雪が降るしんしんとした音のみが支配する。
―――そんな中、彼女が朗々と
「契約を、私と結んでくれる?」
「それが最初の記憶だった」
闇の中つぶやく。
ここにいると何をしても意味がない。
手や足を動かしても、何かに触れることもできない。それゆえ動かしているということを自覚することもできない。いや、そもそもその手足があることさえわからない。
だから意味がない。
何も感じない。
しかし、音だけは聞こえた。だから言葉を口に出せば自分の耳に届く、それは自分が存在しているということを意味している。彼にとって口に出すことは自分が存在していることの証明行為だった。
時間も
空間も
光も
風も
匂いも
味も
音も
冷たさも
いとしさも……
何も感じない。
何もできない。
だから……思い出していた。
彼は歩いていた。
条件がそろった。
少しずつ「意思」が戻ってくる。
彼はふと辺りをを見回す。
「?」
彼は不思議に思った。
目の前にあるものが数秒なんなのかわからない。
だんだんと時がたつにつれて、それらが認識されていく。
最初に認識したのは色だった。暗い鉄の色、そして白い壁、同時に耐えがたい寒さを感じる。
次に認識したのは鉄の棒だった。それらが垂直、水平に交差していくつも伸びている。そして、それぞれの鉄の棒が白の石の壁や床や天井に固定されていた。それらは規則正しく一定の間隔に隙間が存在していて、向こう側をのぞくことができるようになっている。
それは牢獄だった。
格子の向こう側には生活に必要とされるものがいくつかある。どうやらそこで彼が生活をしているらしい。
年のころは十代半ば、髪は赤、ぼさぼさと不ぞろいで切っていないのか伸ばしているのか中途半端な長さだった。目の色は黒、背は年相応といったところ、顔はよくいっても鋭い眼光、悪くいったらどこか不機嫌な顔をしている。白を基調とした服は上下がどこかうすよごれていた。それをのぞけば特に目立つものはない。
そんな彼が牢獄の前に立っている。
「入れ」
彼のすぐ後ろにいる若い男が短く命令をする。
その言葉は彼にいわれていることだった。
それはいままで何十回も、何百回と同じやりとりだった。
それに逆らうという「意思」が起きなかった。
というよりどんな「意思」も起きなかったのだ。
しかし―――
「どうした? 早く入れ」
若い男が先を促す。
彼はその声にゆっくり振り向き―――
ガン
男の顔面に裏拳を叩きつける。
その男は数歩後ろへとよろける。
続けざまに男の顔面をつかみ、その頭を白い壁に叩きつける。
頭蓋が割れた感触、そして白い壁に鮮血がはじける。
男はその場にずりずりとくずれ落ちた。
「……悪いがどいてもらう」
その状況を見て、その場にいた監視たちが唖然とした表情を浮かべている。
彼が勝手に動いていること、さらに言葉をしゃべっていることに驚いているのだろう。彼自身もこう なってから何度同じ「冬」を迎えたのかわからないほどだ。
「契約……だ」
彼はもう一度つぶやく。
金縛りが解けたのか、すぐに残りの監視たちが襲い掛かってきた。
彼らの動きは訓練されているものだ。
一人はベルを捕らえようと、警棒を振り上げて襲い掛かる。
遅い動きだ。
最初に倒した男から奪っておいたナイフで相手の攻撃をいなす。そして隙だらけになった喉にナイフを―――
「……」
目標を変え、相手のこめかみをナイフのグリップでえぐるように殴る。
監視が倒れるその一瞬手前で相手から警棒を奪う、こちらの方が彼にとって扱いやすい武器だった。
殺しはできない。
監視たちは彼の動きについてこられていない。彼が奇襲を仕掛けたせいもあるのだろうが、それを差し引いてさえ、彼らの動きは彼と比べ遅いものだった。彼という役立たずを監視するには三人で十分というのだったのだろうが、状況は変わってしまったのだ。
「……」
無言で監視のみぞおちに警棒を強烈に差し込む。
声にならない声をあげ、最後の監視は倒れた。
あたりは静寂に包まれる。
白い息を大きく吐き出す。
この寒さを認識するのにそれは十分だった。
「そういえば……冬は三度目だったな」
つまりこうなってから三年の月日が過ぎたということだった。
外には雪が積もっている。狭い明り取りから、わずかにそれが見える。
辺りはすでに日が落ちているようだが、月明かりからそれは辛うじて判断することができた。
そういえばクリスマスは過ぎたのだろうか?
冬になるとクリスマスを思い出し、そして彼は自分の名前を意識する。クリスマスの日に生まれ、だから名前はベルという名前をつけられたからだ。
「ベル・クリスマス」それが彼の名前だった。
ただひたすらに逃げる。
この施設から逃れるために。
他にはなにもない―――というより何も思い出せない。
断片的な記憶しかない。
どうやら記憶の部分部分が飛んでいるらしい、
だから、この施設で何をしていたとか、そういうことはあまり覚えていなかった。
しかし、この施設が何のためにあるのかということは覚えている。ここは「意思」が使える人間を扱う施設だ。だから自分はここにいるのだ。
記憶が飛んでいる。
その事実は彼を冷静にさせなかった。だが今は彼にはそんなことにかまっている時間なかった。
「いたぞ、こっちだ!」
遠くから声が響く。
「はぁ、はぁ、はぁ」
息、それがとても白い。
白い廊下の中を白い息を切らせて走る、その白は彼の白い服とあいまって、窓の外の雪の風景と重なる。それは一面の白い世界のいるような気にさせる。
そしてこの白い色が余計に寒さを感じる。
そんななか目立つ赤がある。
一つは彼の赤い髪。
そしてもう一つは―――血液
彼の体から漏れている体液。
赤が点々と白い廊下をよごしている。それこそ道しるべのように。
打撲、刺し傷、裂傷―――満身創痍。
体中が痛みを発している。
追手をやりすごし、時には戦う、ひたすらにそれのくりかえし、限界はすぐそこだった。
角を曲がり、そしてまた駆ける。
ふと気付く。
つい先ほど、つまり逃げ出す前にこの道を通った気がしたのだ。
気になってそちらの方に足を向ける。
そして、大きな扉を押し開ける。
大きな部屋にでた。
それは今まで通ってきた廊下と同じように白で統一されていた。
一瞬立ち止まった。
そして大きな部屋の隅のほうに彼が先ほどいた場所と似たような牢獄がある。そこに―――
少女がいた。だから足が止まったのだ。
ベルと年のころは同じぐらい―――。
「お前は!」
中にいた監視が声を荒げる。そしてナイフを片手に襲い掛かってくる。しかしそれにはあまり意識がいかない。
大きな目、どこかかわいい顔立ち―――
警棒で監視の顔面をうつ。
少女のその目は今はどこか遠い物を見ている―――
たまらず監視はもんどりうって倒れる。
長く肘まで届くぐらいの髪、背の高さは160センチを切るぐらい―――
二人目の監視が警棒を大きく振りかぶり殴りかかってくる。
少女の服は彼と似たようなものをきせられている。
監視の警棒を避けつつ相手の懐に飛び込み、相手のあごを手掌でふきとばす。
どうやらこの少女も閉じ込められているらしい。
「はぁ、はぁ、はぁ」
最後の監視を倒したら、彼は急に体が重く感じ始めていた。ついに体にがたが来たようだ。
と
監視とは違う雰囲気の男がいた。
白衣を着ていて、体の線も細く、とても戦う人間には見えない。ここの施設の人間だろうだろう。
彼自身もから実験をいくつか受けた記憶がある。
震える手で銃を握っている。
金属の鋳造、火薬の製造、そして銃の製造の三つは政府が官営でやっていて厳しく監視していて、軍以外には銃器は渡らないようになっている。
しかし、この銃は普通の銃ではない、この銃は記憶にひっかるものだった
その銃は「意思」を打ち出す銃だった。
その銃の引き金が引かれる。
しかし、それは狙いが悪く、あさっての方へ飛んでいく。
施設員を銃ごと蹴り飛ばして黙らせる。
あたりに金属音が響く。それに目がいく。
施設員が倒れたときに、そいつが持っていた鍵がポケットから飛び出たのだ。ここの牢獄の鍵だろうと彼は当たりをつけた。
「お前……逃げたいか?」
その少女にベルは声をかける。
少女はなにも反応を示さない。監視たちと戦っている間もこの少女はまったく微動だにせず、虚空をただ、眺めていた。
その瞳に一瞬吸い込まれる。
それでも彼女の目には焦点は合わない、精神はここには存在していないかのようだった。
少女は黒髪に黒目で、それはこの白い部屋の中で妙に目立つ。
倒れた施設員から鍵を取り上げ、牢獄を開ける。
「……逃げるのも、逃げないのも、お前が選べ」
そういい残して踵を返す。
出口へと足を向ける。
彼の体のあちこちからは血が出ている。それも服が真っ赤に染まるほどの出血、だがそれが幸いして服が傷口に張り付いて止血代わりになっていた。
自分はあんな少女にかまっていられない。今は追われている身なのだ。それに一刻も早くこの場から逃げ出さなくては、ダメージでもう戦えない。
あの扉を開けたのだって気まぐれである。
そう思った。
視線を背中に感じる。
振り向く、しかし少女に特に変化はない。いまだどこか遠くを見ていて焦点が合っていない。
気のせいである。
自分は他人のために何かするような人間ではないし、第一に他人のことを気にしている余裕はない。
そう思った―――が
気づくと少女に手をさし伸ばしていた。
「……立てるか?」
彼は自分の行為に驚き半分、そしてなぜか「当然」という感覚がする。
なによりあの視線のような不思議な感覚が彼を捕えて放さなかった。
少女は無言のまま、ゆっくりと彼にに顔を向ける。
ここで初めて目が合った。
その少女の大きな瞳に吸い込まれる。
どこか焦点がさだまらない、ぼんやりとした目。髪が目にかかっているためにその目がは隠れがちである。
彼にはその少女の目に―――
赤が灯ったように見えた。
瞬間
妙な感覚を覚える。
無理やりに言葉にすれば、それは―――不安。
体を後ろにそらしつつに飛ぶ、その彼の目の前に下から上に切り裂くような鋭い攻撃が走る。
少女の攻撃だった。
「やめ―――」
その言葉を無視してさらに少女は襲い掛かってくる。
頭を狙ったハイキックをベルは体を落としてかわし、さらに少女はそのハイキックの勢いを利用した回し蹴りをベルがぎりぎりでかわす。
すばやい動き、どうやらかなりの「意思」の使い手らしい。
転がるようにして牢獄から抜け出す。
「はぁ、はぁ、はぁ」
動いたために血が固まっていた部分から血が噴出す。服がますます赤くなっていく。
しかし、休んでいる暇はなかった。
少女は髪をまるで羽ばたかせるようにして、空を駆ける。そして彼が逃げるのよりも数段早いスピードの追撃が迫る。
それは砂の入った袋を叩くような鈍い音。
少女はまるで一本の矢のようにベルに一撃を叩き込んだのだ。
ベルは数メートル吹き飛ばされて、壁に激突する。
少女は彼から数メートル離れているところでナイフを拾う。監視を持っていたのを拾ったのだ。
ベルは手に持っていた警棒は今の攻撃でどこかにやってしまっていた。
近くにあった武器になりそうなものを拾う。少女がナイフをひろったのに対抗するためだ。
それは先ほどの施設員が持っていた銃だった。
その銃のグリップを握る。
ふと感じる違和感。
しかし、そんなことに意識を置けるほどの余裕がない。
相手はナイフを持っている。
こちらは銃。
「冷静になれ」そういう言葉が頭の中ではじけた。
誰かがよくそんなことを言っていた気がする。
冷静になれば物事は少しは好転するものだ。
銃とナイフは離れた間合いでは銃が勝る。射程距離の問題だ。
銃は使ったことはないが扱い方は知識の中にあった。
しかし、大量の出血、疲労のマイナス要因、そして少女のすばやい動き。
これらを考慮すると―――状況は五分といったところだろうか。
血の味のするつばを飲み込みつつ彼は立ち上がる。
出血により一瞬立ちくらみをを感じるがそれは踏ん張って耐える。
「こいよ」
銃を構えつついう。
もともと、こちらが銃の扱いに慣れてはいないのもあって、普通に撃ったとしても少女のスピードでは当たってはくれない。だとしたら少女が攻撃を仕掛けてくる、その一瞬が、チャンスだった。
しかも中途半端な距離ではかわされてしまうため、できるだけ近くから銃を撃たなくてはならない。しかし、ベルはダメージですばやい動きができない。
よって、少女をぎりぎりまでひきつけるほど成功する確率が上がるが、それゆえ失敗すれば逆に致命傷を受ける確立も高くなる。
この銃は「意思」を使う銃である。「意思」が消耗した状態では撃てるのはもう一発打てば、二発目は打てないだろう。
勝負は一瞬。
少女が床を蹴る。
ベルが銃を握り締める。
少女が駆ける。
ベルが照準を合わせる。
少女がナイフを突き出す。
ベルが引き金に手をかける。
凶刃と凶弾が交差する―――
その一瞬前だった。
ブツン
「!」
そんな音がして突然あたりが真っ暗になる。
体の心が冷えるような錯覚がベルに走る
一瞬のタイミングをずらされた。
しかし、少女は高速なスピードで動いていている。一瞬の隙が命取りなのだ。
一か八か暗闇の中で銃を撃つ、しかし手ごたえがない。外れたのだ。
次の瞬間に来る衝撃に身構える。
それはもう一秒にみたない時間。
それは時間を引き延ばしているような感覚と同時にどこかベル自身が第三者となって見ている感覚があった。
ああ、ここまでか、というどこか覚めた思いがあったのだ、
しかし、それがなかなかやってこない。
と
ドサッしたものがベルの体に覆いかぶさってきた。
「くっ」
それを慌てて払いのけ、反撃しようととする。
だが、その感触に戸惑う。相手はなにも動きを見せないのだ。
やがて暗闇に目が慣れてくる。
それは先ほどの少女だった。
少女の目は閉じられている。どうやら気絶しているらしい。
状況が少しずつ頭の中で認識されていく。
少女が攻撃の途中で停電が起き、そしてなぜか少女は気を失い、そのまま彼に倒れ掛かってきたというわけだ。
外は雪が降っている。その雪の重みで電線が切れたのかもしれない、それで停電の説明がつく。しかし、少女が意識を失った理由がわからない。
「いったいどいうことなんだ」
舌打ちをする。
しかし―――状況は悪くない。
今ある脅威をどうにかできた。そして―――
この停電を使わない手はない。
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